私と海

海どりの声はさびしくて、美しくて、なにか、とても遠い昔のひびきがありました。昔知っていて、でも、なくなってしまったもの、そして、それきり二度とみつけられなかった、すばらしいなにかのことを、アンナに思い出させました。これはイギリスの作家、ジョーン・G・ロビンソンの「思い出のマーニー」の一節。療養のため海辺の村にやってきていた少女アンナは、家でイヤなことがあって、堤防の上を砂丘まで歩いて行きます。そして砂のくぼみに寝転び、さらさらわたる風の音や海どりの遠い叫び声や海のたてるやわらかなざわめきを聞きながら、午後の時間を過ごすのです。

現在ぼくは鹿児島市内の高台にある団地の崖っぷちに住んでます。なぜ崖っぷちなのかといいますと、学生の時に聞いたアニマルズというロックバンドの「朝日の当たる家」という曲のせい。多感な青年(ぼくのこと)はこの曲を繰り返し聞いているうちに「家を建てるなら朝日の当たる家!」と思い詰めてしまいました。あとで知ったのですが、朝日の当たる家というのは朝日楼という名の売春宿のことだったのです。風は強いですが景色は開け、遠くに海も望めます。

そして何よりよかったのは、ちょっと車を走らせて目の前の山を越えると間もなく日本三大砂丘の一つ、吹上浜がまるで宇宙の一角のように現れ展開すること。この砂浜が後に、ぼくの人生に大きな役割を果たしていくとは家を建てたときは思いもしなかったことです。以来、この広大な砂浜は現在に至るまでぼくの人生に深く寄り添うことになったのです。

人生とは旅のようなものですが、道に迷ったり、つまづいて転んだり、思いがけず壁にぶち当たって途方に暮れるとき、昼夜かまわず海に向かって車を走らせ、気が付くと波打ち際を歩いていたという・・・まるで青春ドラマのワンシーンですね。冒頭にあったように、海と砂丘は「昔知っていて、でも、なくなってしまったもの、そして、それきり二度とみつけられなかった、すばらしいなにかのこと」を、ぼくに思い出させようとします。遠く広がる海、潮風のにおい、言い表しようのない空の色、目くるめく太陽、飽くことなく寄せては返す波。そんな太古の昔から変わらない普遍の空間が、記憶の底に沈んでいる澱をやさしく揺さぶります。

ぼくの趣味は写真撮影ですが、夕日はもちろん、松林を優雅に舞うジャコウアゲハ、砂丘に群生するハマゴウ、イソシギ、波打ち際を風のように疾走するゴーストクラブ(砂蟹)。ここに来ると被写体に困ることはありません。そこにある何もかもが不思議に満ちていて、常に新しく、我を忘れて見つめてしまいます。

海洋生物学者レイチェル・カーソンはその著書センス・オブ・ワンダーで、「知ることは感じることの半分も重要ではない」と言っています。そして、年をとっても神秘さや不思議さに目を瞠る感性を失わず、自然という、力の源泉から遠ざからないようにしましょう、と諭すのです。

これはよく知れたウルマンの詩、「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」とも共鳴するところがあると思います。ぼくは今も青春の中にいると断言できるのですが、それは、この海、この砂浜があってこそなのです。

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